試金石、福島。

持続可能な医療・農業・教育の通訳は大いにやりがいがあります。海外講師の職業は医師、学校の先生、とさまざでも思いはひとつ。 「人間が自然の一部であることを思い出すように」。そんな願いを分かち合っています。

そしてもうひとつ気づいたこと。

「人間が自然の一部であることを思い出してほしい」と願う海外講師たちは、福島について、開かれた問いを静かな言葉で語るのです。

「福島の人たちはいまどうしているの?」
「避難した人たちは避難先でどうしているの?」
「福島に住んでいる人たちも元気なの?」

けっしてこんな決めつけは言わないのです。
「福島に住みたい人なんてもういない。」
「福島は放射能汚染されて人の住むところではない。」
「東日本の食べ物は口にできない。」
これ、すべて私が実際に耳にした言葉です。むろん、通訳のご縁ではありません。

静かに開かれた問いには、こんなふうにお答えしています。

「福島にいると、ふと清々しい気分を感じるんです。ここの人たちは、想定外の事態に直面して、 日々、正解のない問いに向き合い続け、辛い議論もした。そのせいか、町を歩いていても、なんともいえない目覚めたような、清々しい顔をしている人とすれ違ってはっとするんです。

ここからは私の考えです。

8年前の南相馬

「福島の問題は放射線被ばく以上に「自由」でもあると考えます。

福島の人たちに避難しろ、しなくていい、など答えを押し付ける必要などない。ただ、空っぽの耳と心を傾けること、彼らの自由を尊重すること。それを阻むのが情報の不足、経済・物理的事情であれば全力で支援すること。

それに、放射性物質は鏡だと思います。それまでの農業の方法、死生観を映し出す鏡です。

たとえば、福島は東北六県の中でも農薬、化学肥料の使用量が少なかった。土壌の微生物が元気です。作物の根も元気です。元気な根は賢くて自分の葉や茎に合わないものをバカスカ吸収したりしないそうです。だから、土壌に放射性物質が見つかっても作物には驚くほど移行していなかった。ラウンドアップなんか撒いているそのへんの家庭菜園のほうが心配です。

それに私たちは全員必ずいつか死ぬ。ところが死を忌嫌い非日常化しています。 医療さえ「幸せな死」を邪魔しかねません。死をもたらすのはガン、ガンを引き起こすのは放射線、 放射線は原発事故、福島と短絡的に結びつけ、放射性物質を責め、福島を避ける。

恐るべきは放射性物質をあの場所に持ってきた人間ではありませんか。

死は生の卒業式。大切な祝福の時であってほしいもの。

でも、準備のできていないときに、不公平に押し付けられたくはないもの。準備のできているときに、おせっかいに邪魔されたくないもの。まして構造的暴力などもってのほか。」

こんなふうにお話しすると、海外の先生方も思いがけない話をなさいます。
アリューシャン列島で戦死したお父様のこと、バイク事故で亡くなった10代の甥御さんのこと。

そして、生きている間の健やかさだけでなく、死が幸せであることも大切よね、などと話しています。

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