私は英語教育業界が苦手です。

持続可能な未来のための通訳者、通訳道場★横浜CATS主宰の冠木友紀子です。

英語が話せるようになりたい、と思いながらも英語の先生に違和感を覚えたことはありませんか?

実は、私は英語教育界が大の苦手です。独身時代は毎週のようにどこかの英語教員研修に参加していました。自分が日本一英語を教えるのが上手だと思っている先生たちにも30人くらい会いました。でも「心」に響く体験はわずかでした。女性の先生に多い黄色い声、ハイテンションにはついていけません。「伝えたいっていう気持ちが大事、コミュニケーションは発信力」なんてしらふで言われると「まずおたくのダンナで試してみたまえ」と心の中で呟きます。

この違和感の正体がやっとはっきりしました。言語造形家の諏訪耕志先生のオンライン講座のおかげです。

下心がないものは美しい。

この講座では、シュタイナーが教員対象に教育の土台としての人間観を説いた講座「一般人間学」を読んでいます。さる土曜の講座は第2章の核心でした。ひとりで読んでいると3Dの画集がいつまでも2Dにしか見えない気分ですが、諏訪先生のお話を伺うと3Dの像を結び始めます。

今回のテーマは「教育は芸術である」(「芸術的」ではない)「芸術とはなにか」でした。

ひとつの答えとして諏訪先生は「芸術は死せるものに生命をもたらす取り組みである」という見方を示されました。

死せる言葉に心動かし、身体を動かし、声に出すとき、言葉はまた生命を得る。このいとなみが芸術であり、炊事、掃除なども真心をこめて専心することで芸術でありうる。だから、誰もが何らかの仕方で取り組むことができること、と私は受け止めました。

そこで思い出したのが…ドナルド・キーンさんが大学の図書館で源氏物語が少しでも読めたときの喜び…古代ギリシャを語るICUの川島先生のギリシャが好きで、もう嬉しくてしょうがない、というお顔をお声。いつまでも少年のようなお2人は、「なんの下心もなく、無私に、愛する領域に仕え、生き生きとしている。その領域を手段化することはない」が共通点です。

ほとんどの英語教育はその逆でしょう。「グローバルに活躍する、年収を上げる(ウソウソ)、就職を有利にするなどの下心で、自己中心的に、なるべく楽をして、英語を手段として使ってやろう」としているのではないでしょうか。

このほうがマーケットは大きい。もうかる。でも、これはものぐさ略奪者の態度であって、文化遺産を継承する者の態度ではありません。どう考えても私にはムリです。

私にはたったひとつの試金石があれば十分です。「この取り組みは死せるものに命をもたらすか。」

あたためている企画、明日発表します!

通訳指導者 冠木友紀子のプロフィール

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