「すべての宗教はひとつの頂を目指す」?

持続可能な未来のための通訳者、冠木友紀子です。

よく聞くんですよね。
「宗教はそれぞれに違う山道からひとつの頂を目指していると思うわ。」

そうだといいんですけど。耳ざわりもいいんですけど。なんだか違和感がありました。でも「違う」というほどの根拠もなく「うん、そうかもね」なんてお茶を濁していました。

でも…このごろふと思うのです。

方向が逆じゃない?

ウェールズの丘の頂では牛と馬が草を食み…

諸宗教はひとつの頂に収斂しようとしてきたのではなくて、ひとつの源からバラけ続けてきたのでは?それが人のさがなのでは?

人智を超える究極の存在が、世界各地で異なる現れ方をした。それぞれの現れ方を慕う集団が、組織を強固にするためにいろいろな説を加え、分裂を繰り返してきた。(ちなみにキリスト教が一神教で冷厳、日本は八百万の神で寛容、なんていうのは荒っぽい話です)

私は学校でキリストの世界観に驚き、キリスト教の「中の人」として育ちながら、家族の葬式仏教を離れるわけにもいかず、常に矛盾と緊張をかかえていました。10代のころはプロテスタントの急先鋒よろしく葬式仏教を理詰めで責め立てたこともあります。

それでも洗礼を受けるのは「違う」と感じてきました。「教会」の一員となることや、パウロの語る直線的な時間感覚に違和感があったのです。あまりに俗な葬式仏教にげんなりしながらも、父が大切にしていた般若心経の世界には惹かれていました。子どもの頃から、どちらか一つだけを居場所とできずに、ただ問いと共にここまで来ました。

そして思うのです。何かを選ぶことが他のすべてを否定することにつながるのはおかしいと。ひとつを選ぶことが、他のすべてをも認めるような選び方もあるのではないかと。そうでなければ、ひとつを選ぶ必要はない。

世界はひとつ。でも、人間は分けたがる。でも、世界はひとつ。

ヒントは「時間は直線的ではない」のようです。

おそまつさまでした。

持続可能な未来のための通訳者 冠木友紀子のプロフィール

「赦されて在る」を翻訳で体験する

さる13日「『春と修羅 序』との再会」と銘打って、賢治の詩に向き合う贅沢なイベントを開きました。

読むと言ってもふだん私たちは本で文字を追うだけになりがち。具体的な散文ならともかく象徴的な韻文はこれでは歯が立ちません。「なんかわかった気がする」「なんだかよくわからない」で終わりがち。そこであえて英訳を通した深読みと言語造形を通すことにしたのです。導き手は平安時代の歌論がご専門のパトリック・ヘラー先生と大阪からお招きした言語造形の諏訪耕志先生。

はっとする再発見が続く中、こんな声も聞こえました。

「もとの日本語なら自分なりに感覚的に味わえていたのに、英語だとわかりにくい。なぜわざわざ英訳したのか。」

面白い!

なみいる参加者はプロとして通訳、翻訳にあたろうというツワモノばかり。そのなかからこういう根源的な問いが発せられるのは興味深いです。なにより忌憚なくものが言えているのがうれしい!

なぜ訳したのか、はそれぞれの訳者に訊いてみなければわからない動機もあります。

それは脇に置くとして、わたしは2つのことを思いました。

①日本語は母語であるがゆえに自分に甘くなっていないか。
感覚的にとらえている、というのは自分の好みにあわせて読んでいるのではないか。

②訳す、とはつらさ、謙虚さ、赦されてあることと不可分ではないか。
訳す、つまり外国語での表現を1つにしぼることは、ひとつの語、フレーズが持ちうるさまざまな意味のなかから、どれかひとつを主役に選び、他をわき役にすること。たとえば「こころ」はheart, mind, soul, spirit, feeling,いろんな顔がある。ぜんぶ引きずるわけにはいきません。ひとつふたつ選ぶことで、選ばなかった他の選択肢が、申し訳なさと共にかえって鮮明に見えてくるのです。日本語ですうっと読んでいてはこの苦しみはありません。さまざまな側面に気づかないままのこともあります。

翻訳するには、たいていのひとが読み飛ばしそうなところまで、この苦行のようなステップを繰り返します。「読み飛ばしているのに勝手に分かった気になる」は大いに防げるでしょう。

文学の訳は深く読む喜びと選ぶ哀しみを伴います。個人的に手元に納めておいたほうがよいのかもしれません。

ただ、それが求められて世に出るとなったら、訳した者はなぜそう訳したのか選びの過程をきちんと示し、批判に開かれてあること。読むものは感謝と寛容を忘れないこと。

このふたつが成立すると訳者としては「赦されてある」境地を味わうことになるのでしょう。 趣味を超えて、生きることの縮図のひとつを体験できるのでしょう。

このことをまさに宮沢賢治自身が「春と修羅 序」のなかで言っています。

「これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがえましょうが
それらも畢竟こころのひとつの風物です
ただたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとおりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとおりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるように
みんなのおのおののなかのすべてですから)

宮沢賢治「春と修羅 序」より

そんな思いから、私は今年は宮沢賢治とカリール・ジブラーンに向き合います。

ゲーテもこんなふうに言っています。
Wer fremde Sprachen nicht kennt, weiß nichts von seiner eigenen.
外国語を知らぬ者は、自らの言語も知らない。
( Maximen und Reflexionen; II.; Nr. 23, 91 )

持続可能な未来のための通訳者 冠木友紀子のプロフィール

シュタイナー関係の複数イベント同日開催はどうしたら?

「シュタイナー関係って同じ日にいくつもイベントが。」
「これじゃ人が集まるわけがない。」
「あれもこれも行きたいのに、ひとつしか行けない。」

お困りですか?さてどうしましょう。
みんなでスケジュールを共有して重ならないようにする?

ブー。

「あら、うちはそこの土曜日イベントがあるから、おたくは金曜日にして」
「おや、○○幼稚園さんが日曜にイベントあるから、うちは月曜にしよう。」

こんなやりとり成立するわけがない。

成立したとして、おんなじ面々が回遊魚みたいに見慣れた会場をうろうろするのって、どうでしょう?孤立して閉じた輪になるように思えます。

日にちをずらし合ってもどうにもなりません。無駄です。

やるべきことは2つ。

イベントはしずく。あなたの茎はなに?ちなみにこれはコリアンダー


①そのイベントに招きたい、痛みを和らげたい相手をしっかり絞る。想定外の人が来てもいいのです。イベントが誰にあてたラブレターかはっきりすること。相手のいないラブレターは気持ち悪い。

②オンラインとの組み合わせ。対面だけにたよらず、ふだんからオンラインを対面イベントの準備とフォローに活かすこと。対面とオンラインが両立しないイベントは軸があまいんでしょう。(どうしても単発でやりたいときは特別感を出せることを確認。)

そしてもうひとつ。私の個人的な項目ですが、そのイベントが、天にすでに描かれた大いなる計画を、わずかでも、できるだけ地上に写し取るこころみになりうるか思い巡らします。ここで違和感があったらストップ。

1年は365日しかない。週末は52回しかない。でも52回もある。連休も。

いくら重なってもいいのです。シュタイナー関係だけで見ているからシュタイナー関係同士で重なっていると錯覚する。サッカー、野球、町内会の新年会といくらでもイベントなんて重なっています。

あなたのラブレターの宛名は誰?

このごろ、あちこちのシュタイナー関係団体でご相談をうけます。今はとてもその時間はとれないけれど、もし、ウェブデザイン、紙モノデザイン、オンライン発信などの人財にめぐまれたら、そのときは、なんて思っています。

持続可能な未来のための通訳者 冠木友紀子のプロフィール

拒食症だった私のもうひとつの本音

持続可能な未来のための通訳者、冠木友紀子です。

前回は拒食症だった私が、心の底で「人間都合優先の世界」に怒りを抱き、 生命力あふれるワイルドな世界での 採集狩猟生活を望んでいるらしいということを書きました。

採集狩猟生活への憧れには、表裏一体の、双子のような別の感情もありました。

それは「ここでは、本当は何もやりたくない」。
久しぶりに思い出しました。

高校生の頃、将来何になりたいかと訊かれるたびに困惑しました。職業名でスパッと答えられなかったのです。友人たちは見事に具体的に弁護士、医者、キュレーター、新聞記者…と答え、目標達成するべく小さなステップを着々と進んでいました。でも、私はどの職業を思い浮かべてもまるで心躍りませんでした。もちろん、身近にいろんな職業の大人はいました。彼らを人として尊敬はしても、その仕事に惹かれることはなかったのです。通訳になりたいなんて思ったこともありませんでした。

私の入りたい箱はここにない、という感じです。

それでも何もしないわけにはいきません。まあ、何か取り組めば、人並みにはできた。だから、大して好きでないこともなんとなく我慢して続ける変な癖がついたかもしれません。けれど、その程度のことは「本当は何もやりたくないくせに」のささやきが聴こえると、心の底ではすうっと冷めてしまっていたのです(まるで太宰治の「トカトントン」のよう)。

そういう文明社会不適応みたいなところは今もあるでしょうね。

それでもなんとか文明社会で折り合いをつけているのは他者の存在あってのことです。

自分にとってはいまいちなことも、それを他者が必要としている、他者の痛みを和らげることだったら、がぜん動けるのです。

自分の人生の意味など、自分だけで成立するはずなどない。そう思います。

持続可能な未来のための通訳者 冠木友紀子 プロフィール

拒食症だった私の本願は…?!

持続可能な未来のための通訳者、冠木友紀子です。

なんて書いておいて、実は気持ち悪いのです。持続可能、国連のSDGs、本当は甘っちょろいと思っているのですけどね。まあ、わかりやすいから使っているようなもので…

本音は…そう、昨日、気の置けない友人たちとの新年放談にて、自分の本音を釣り上げられる思いがしました。スッキリ―!

「高校生の頃、摂食障害だった。一般には要求が多い母親と 弱い父親のせい、とか大人になりたくないから、とされてるけどなんか違う。浅いと思う。シュタイナー医学では、本人が受肉したがっていないという思いにもっと注目すべきと言っているけどそれもなんか物足りない。」

てなことを私が申しましたら、精神科医のM子さんがこう言うのです。
「同感。拒食症のひとって、自分の身体を受肉したくないというか、こんな世界に受肉したくない、と思っているところがある気がする」

どんぴしゃり。

「こんな世界」とはどんな世界かというと…ワイルドな生命のありようがゆるされない世界。すべてが人間の都合で扱いやすく飼いならされている世界(そうは問屋が卸さないでしょうが)。

これでベジタリアン、ヴィーガンに感心しながらも違和感を覚える理由も氷解しました。

動物であれ、植物であれ、人間の食べ物となるために飼育、栽培されたものを食べること自体に罪悪感があるのです。

拒食症のときも、母の料理がいやだったわけではありません。人間本位に操られた生命を、料理という文明を通して口にすることが耐えられなくなったのです。

さて、こうなるとやっぱり採集狩猟生活ですかねえ。性に合ってるのはわかってましたが。

でも、時代と和解するのも私のテーマです。来週、宮沢賢治の「春と修羅・序」との再会で何が出てくるでしょうか?

【特別臨時講座1月13日】英訳と日英言語造形で味わう「春と修羅・序」


クリスマスは12日続く

クリスマスおめでとうございます。
通訳道場の冠木友紀子です。

さて、今日はクリスマスイブ。
みなさん、どう過ごされますか?

いいんです、多少うかれたって。
普段は食べない贅沢なものを食べたって。
(イエス様の誕生日は別に12月25日ではないことは別稿にて)

ただ、26日にクリスマスツリーを片付けて、
大掃除に買い出し、お正月の仕度なんて忙しすぎます。

確かにクリスマス「日day」は25日だけ。
でもクリスマス「節tide」は12日間。
お誕生日とされる25日から、1月5日までの12日です。

12日目の夜に捧げられたお芝居がシェイクスピアの
「十二夜」です。

「クリスマスの12の日」という愉快なカロルもご存知でしょう?

1月6日は東方の3人の賢者が意味深な贈り物を携えて
イエスに会いに来たとされる日です。この日をイエスが公に
姿を表した日として公現日Epiphanyといいます。

その贈り物とは…黄金(王のための捧げもの)、
乳香(祈りの象徴、イエスが神の子であることを表す)
没薬(死体の防腐剤。イエスの十字架刑を暗示する)でした。

この12日間はひとつづきですから、ヨーロッパは静かなものです。
26日にクリスマスツリーを片付けたり、しめ縄を飾ったりしなくていいんですもん。

クリスマス節は、冬至を過ぎてわずかに甦り始めた冬の光を感じながら、静かに来し方、行く末を想う時です。

くれぐれも、寒い中無理をしてお風邪など召されませんように。

このロサンゼルスの合唱団、クリスマスメドレー傑作です!
(Los Angeles はスペイン語でThe Angelsのこと)

話芸としての通訳を追求する冠木友紀子プロフィール

クリスマスソング、Joy to the worldに込められた英国自由人の願い

日本語では「もろびとこぞりて」の詞で知られるあのメロディー。パン屋さんのケーキCMでTVでもよく耳にします。

昨日の投稿では「もろびとこぞりて」はJoy to the worldの日本語訳ではないことをご紹介しました。変なこともあるものです。

さて、英語で歌えるとまた盛り上がるJoy to the world。英語詞はアイザック・ウォッツ(Isaac Watts 1674ー1748)が、詩篇98篇をもとにアレンジしたものと言われています。この詩篇では、神をこの世の王とし、その即位を大自然も喜ぶとしています。

アイザック・ウォッツの肖像

このウォッツという人、ケンブリッジかオクスフォードで学びたいと望んだものの、許されませんでした。当時のオクスブリッジは英国国教会会員に限定されていたのですが、ウォッツはCongregational、つまり会衆派(組合派とも)とよばれる国教会ではないグループに属していたためです。

そこで別の学校で神学、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語を始め、当代一の教養を身につけたそう。

ただ、ウォッツは会衆派にこだわったわけではないようです。ひとつの教派の中にとどまり、似たような価値観をもつ限られた人々を相手に説教をするより、外に出て、天地の仕組みを探求し、人々と共に学ぶことを選び、楽しんだと言われています。ずいぶん自由な人だったのですね。

Joy to the Worldにも派閥、分別の愚から自由な者たちの喜びが願われているようです。

あと180年遅く生まれていたら、ルドルフ・シュタイナーと話が合ったかもしれません。

クリスマスおめでとうございます。

以下、ウォッツの詞と私の訳です。中学生のみなさん、使役動詞のおさらいですよ。let S Vは「Sが望む通りVするにまかせる」。make S to Vは「有無を言わさずSにVさせる」です。後者の方が実現まで距離があるのでVにtoがついているのもうなづけます。

Joy to the World; 
the Lord is come!
Let earth receive her King!
Let ev'ry heart prepare Him room,
And Heaven and nature sing.

Joy to the earth,
the Savior reigns!
Let men their songs employ;
While fields & floods, rocks,
hills & plains
Repeat the sounding joy.

No more
let sins and sorrows grow,
Nor thorns infest the ground;
He comes to make his blessings flow
Far as the curse is found.

He rules the world
with truth and grace,
And makes the nations prove
The glories of His righteousness,
And wonders of His love.

喜びを世に! 主、来たりしゆえ
大地がその王を受け入れるにまかせよ
めいめいが心に王の部屋をととのえるにまかせよ
天と自然界が歌うにまかせよ

喜びを大地に! 救い主は君臨したもうゆえ
人々が声を挙げて歌うにまかせよ
そのとき、陸や海、岩や丘や野も
くり返しその喜びを響かせる

もう罪と悲しみをのさばらせまい
いばらを大地にはびこらせまい
主は来ませリ、その祝福を絶えず巡らすため
呪いが見いだされるところまで

主は世を治めたもう、まこととあわれみによって
そして国々に証しさせたもう
さかえある主の義と
驚くべき主の愛を

(冠木友紀子 イメージ順尊重試訳)

英語らしく歌うには、日本の湿気に負けず、クリアーな子音を保つこと。プロ通訳者が愛用する骨導ツール、プロナウンスはこちら。

「もろびとこぞりて」はJoy to the worldじゃない?

持続可能な未来のための通訳者、冠木友紀子です。

明日はクリスマスイブ。皆さんお気に入りのクリスマスソングはどれですか?

「もろびとこぞりて」も人気のようで。
この讃美歌について、友人のお嬢さん、高校生のSさんの質問に「面白い!」とうなりました!

Sさんはどうしても納得いかない、という様子でこう言うのです。「『もろびとこぞりて』って訳の日本語が英語と違いすぎます!なんでですか?」

英語とはJoy to the world…のことですね。

理由は2つ。
1.そもそも、別の詩なんです。
「もろびとこぞりて」は讃美歌の本をよく見ると書いてあるようにPhilip Doddridgeなる方のHark the glad sound! the Saviour comesという詩の訳、というか日本語版なんです。

112という数字の下にHark the glad sound!と書いてありまして…

つまり、Joy to the worldの訳ではありません。

えええ?

昔は曲と詞の組み合わせがキッチリ決まっていなかったのです。それで、ひとつ詞を複数の曲に合わせて歌うことがよくありました。

極端ですけど、「さくら、さくら」の曲にあわせて「チューリップ」を歌ってみてください。まあ、これはやりすぎですけれど。

ことに讃美歌は、新たな土地にうまくすべりこむため、民謡や愛唱歌に宗教的な詞をあわせることが多かったようです。

2.歌えてこそ訳詞。
「もろびとこぞりて」は原詩Hark the glad sound! the Saviour comesと比べても「日本語訳」にしてはだいぶ違います。

Hark, the glad sound! the Savior comes,
the Savior promised long;
let every heart prepare a throne,
and every voice a song.

諸人(もろびと)こぞりて 迎えまつれ
久しく待ちにし 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり

もし、まじめな訳にしたら…歌えないでしょうね。

日本に讃美歌が伝えられ、日本人のために日本語版を工夫した先達はただ日本語訳したのではなく、英語を参考に、日本語であらためて詩を書いたのですね。

明日はJoy to the worldに描かれている花嫁、花婿のモチーフをご紹介します。

1月13日「春と修羅・序」で心の羅針盤をととのえるバイリンガル・ワークショップ

O Holy Night★自然に歌うコツその2

持続可能な未来のための通訳者、冠木友紀子です。

いや、びっくりしています。O Holy Nightの人気。私も去る土曜、母校同窓会のクリスマス礼拝でOG合唱団の一員として奉げてきました。

O Holy Nightの歌詞日本語訳をブログで英語の勉強ついでに発表している方も少なくありません。便利な時代、発信力さえあれば、中身の質は別として発表できるようになりました。添削、批評を受ける機会をみずから設けたつもりならよいのですが…文化、宗教の背景、語源のしぐさなどをふまえないものは要注意です。

私はこうした背景のすべてをふまえて訳語を選んでいます。対訳のみではどうしても不十分なので、注を楽しめる書式でキンドルでご案内しますね。

さて、今日は1番の部分、自然に歌うコツを1つお伝えします。ずばり、母音でつなげて歌うこと。スターズ アーや、イットゥ イズ、ナイト オヴ アワとぶつ切りにしないことです。

これはなにも小手先のワザではありませんで…「息を相手に届け続けていれば、自然とつながる」のです。

日本人の西洋言語が聞きにくい、とされるのは息の到達距離の違いも関係しています。英語の歌の場合、たとえば1.5-2メートルくらい先まで息が届き続けるイメージをもってください。単語ごと、フレーズごとにひょこひょこひっこめないことです。

以下、母音で続けるといいところを太字にしておきます。

O holy night the stars are brightly shining
It is the night of our dear Saviour’s birth
Long lay the world in sin and error pining
Till He appeared and the soul felt its worth
A thrill of hope the weary soul rejoices
For yonder breaks
A new and glorious morn
Fall on your knees
O hear the angel voices
O night divine
O night when Christ was born

【臨時特別ワークショップ1月13日】英語で味わい、自分の声で体感する宮沢賢治「春と修羅 序」

「ーman」は差別的?man・womanの語源を辿る

昭和の子どもだった私は「manはジェンダーにひっかかるので✖」と言われると、 ウルトラマン、ガッチャマン、電線マンが心配です。ウルトラセイバー、チームガッチャはまあまあいけそうです。電線マンも今後の女性参画可能性を考慮して、電線オフィサー?

私はジェンダーフリーな言語表現にはどちらかといえば賛成ですが、ときどき言語の歴史が等閑視されているのが気になります。まあ、いきなり昔には戻れませんが、知らないままでいるのと、知るのとではどこかで違ってくると思うのですよ。

たとえば、「manはジェンダーフリーではない」という考えはmanは男性のみを指す、という考えを前提としているはず。

でも初めからそうだったわけではありません。

古英語(450-1160ごろまで)をはじめ、ゲルマン諸語ではもともと男女両方の「人間」を意味していました。

さらに遡ると、menー(=think、考える)、 manー(= hand、手を使う)のように人間の生きざまを描写する言葉との結びつきが指摘されています。あまりに昔のことなのでどれか一つを定説とするには至っていませんが。(「英語語源事典」寺澤芳雄)

womanも古英語の時代、wifmanと綴っていました。 wif=「女の」 man=「人」、というわけです。wifeはもともと「妻」ではなく「女」という意味でした。

そういえば、ドイツ語では「僕の妻」をmeine Frau 、英語で言えば my woman「僕の女」と表現します。

先日、オーストリアの方が英語でお連れ合いのことをmy womanと言っていましたっけ。妙に色っぽい気がしたのは私の妄想でしょうか…

今日を生きる私たちが言語変化に参加することで、未来へのバトンが作られる。そのためにも渡されたバトンの来し方を振り返るのも悪くない、と思うのですが。

持続可能な未来のための通訳者・冠木友紀子のプロフィール