子どもに国際感覚と英語は必要か(12月29日)

大人になったら国際的に活躍するようにと小さいうちから子どもに英語を教える動きが盛んです。
でも幼児に「国際感覚」は必要でしょうか。
そもそも幼児に国家感覚はあるのでしょうか。

 

わざわざ壊すなバベルの塔

た とえばセネガル、インド、中国、ロシア、スウェーデン、日本、メキシコ、イギリス、ハワイの幼稚園児を公園でしばらく一緒にすごさせたら…どうなるでしょう?

 

きっ と子どもたちはコトバの違い、肌の色の違い、国の経済状態の違いなどおかまいなしに、お互いの目と目の奥で通じ合い、一緒に遊ぶことでしょう。「貸して」 「No. This is mine.」「対不起」など母語を繰り出して、大人から見れば通じていないのに通じているような奇妙な会話をしながら、ケンカしたり仲直りしたり、泣いて いる子を気づかったりすることでしょう。

 

そう、子どもは表情やしぐさ、声色といった非言語情報を豊かにやりとりするのです。

 

ときどき子 どもに本心を見抜かれてドキッとするのはこのためでしょう。

 

国や言語の仕切りのない世界に住む子ども達に、あえて国際感覚や英語を教えるのは、大洋を生き 生きと泳ぐ魚に領海という概念を教えるようなものではないでしょうか。

確かに英語のレッスンを喜ぶ子どももいます。それはそのとき楽しけ れば十分。

中高生になってから「あのときあんなによくできたのに」などというものではありません。中学、高校以降の英語は思 考を理解・表現するためのものであるはずです。一旦インストールし直しが必要です。

まずママが堂々と安心していいんです

お母さんがお子さんに英語習得を望むのはごもっとも。
でも周りより早く、私より早く、と願うのはご自身の不安に促されてではありませんか。子どもは親の不安と期待を敏感に感じ取るもの。親を喜ばすために一生懸命学んだりもします。

ならばまず不安を抱いているご自分の心の声に耳をすませてはいかがでしょう。そしてお子さんが「ママかっこいい…」と憧れる英語を身につけてみてはいかがでしょう。

大 丈夫、沢山でなくてよいのです。会話の練習も文法のドリルもいりません。きっと日本語で「読み聞かせ」を楽しんでいらっしゃるかたは多いはず。ちょっと ジャンプしてそれを英語で「語り聞かせ」にしてみるのです。私はジャンプのお手伝いをいたします。近日ご案内、どうぞお楽しみに。

クリスマスは何日続く…?(12月25日)

天皇誕生日に続いthreekingsてクリスマスイブ、クリスマス、と何やらおめでたい日本です。

…が、

まもなくケーキは大安売り、ツリーも片づけて、大掃除が済んだら門松をだして鏡餅をお供えし…忙しいですねえ。

こんなに忙しいのは日本だけですよ!

日本のクリスマスは何日続くのでしょう。
イブと当日の2日?
あらあら、それでは忙しいのも無理はありません。

本来は、クリスマスだけでも12日続きます。

12月25日の当日から、東方の3博士がイエスにまみえたとされる1月6日(教派によって前後)までがクリスマス節、降誕節です。ですから、ツリーを片づけて門松にすげかえることもないのです。日本式でしたら、はじめから門松でいかがでしょう?

このクリスマス節の前にも待降節、アドヴェントと呼ばれる4週間にわたる「静かに待ち望む」ときが設けられています。

そう、教会暦はとても呼吸が深くて長いのです。

とはいえ、イエスが12月25日に生まれたわけではありません。

この日がクリスマスなのは、北欧の「太陽の復活」、つまり冬至を祝うお祭りにかさねたため、と言われます。自然界のめぐり、冬から春に向かうはじまりと、人間の魂の救いのはじまりを重ねたのは、なかなか粋な計らいではありませんか。

プレゼントを買って、おいしいものを食べてうかれたくなるのもわからなくはありません。

中高生の頃は私も「日本のクリスマスは堕落している!」などとピューリタンらしく目をさんかくにしたものですが、このごろは「まあ、よきにはからえ。少しはひとのことを思えよ」といいかげんになってきました。

さて、三人の博士の贈りものと、冬至から春にいたるまで、の2つの深いメッセージを次稿にて。

クリスマスおめでとうございます。

その学習支援(治癒教育)が20世紀の亡霊になるとき(12月17日)

englishmaterial1発達障がい、学習困難と言う言葉が知られるようになりました。

国内外からさまざまな支援方法も登場しています。

私はシュタイナー治癒教育を中心に、
さまざまなメソッドのの通訳をつとめました。
学び手を見る目が開かれる思いをしたこともたびたびです。
たとえば…

…いわゆる「困らせる子」こそ困っていて怠けてなんかいない、
そういう子どもこそ先生の魂が呼び寄せた
「先生を育てるための先生」…

…「困らせる子」こそひとの感覚と運動の育ちの本来の秩序を
ゆっくり見せて教えてくれる…

…「健常児」「できる子」こそ無理していることも。
本物の学習支援は無理しているいい子にこそ
安らぎを与える…

ひとの育ちのしくみの神秘を学べば学ぶほど、
実はこどもをいじって直すなどは不遜なことで、
大人こそ理にかなっていない教え方をあらためてなくては
、と思います。
この信条に適うのがイギリスのINPP(神経生理心理学研究所)の
原始反射・姿勢反射・運動感覚発達の講座でした。

さまざまなメソッドの通訳をしていて気付いたのです。
講座テキストの参考文献リストには必ずこの研究所の名前が!
文献ににじみでる謙虚さ、学問的公正さに私は感銘をうけ、
みずから参加して学ぶに足る講座はこれ、と思い渡英しました。

INPPの現所長、サリーさんははっきり書いています。
「原始反射統合のエクササイズを個別に指導することもできる。
でもいわゆる気になる子の8割は、
感覚を活かし、たっぷり体を動かすよう
学校の授業を工夫することで十分成長できる。」

だから、私も先生たちに運動と感覚のしくみの素晴らしさ、
つまり人間は楽器であること、その調律方法をお伝えしているのです。

子どもの発達・学習メソッドにもいろいろあるようですが、
私がしないことははっきりしています。

①「アメリカの最新の脳科学によると~」をエビデンス代わりにしない。
このフレーズはなぜかスピ系でよく見かけます。
日本人の体質、生活を考慮に入れていないことが多いようです。

②「強く、早く、沢山、正確に」、という20世紀型生産性の再来をゴールにちらつかせない。
「~~すると鉛筆が楽に持てるようになる、
字が速く書けるようになる、計算を間違わなくなる」
というと結構なようだけれど、
「強く、早く、沢山、正確に」、という
20世紀型生産性の再来ではありませんか。
そんな時代が終わったことはもうはっきりしているのでは?
私はゴールを設定するという発想自体にも、
「武道の修行」の観点から限界を感じます。
まあそれはまた別稿で。

お子さんたちが困っていれば何とかしたいと
思われるのは無理もありません。
不安を抱えるお母さんたちは藁をもすがる思いです。

でも、お子さんを制度に合わせる努力の100倍、
制度がお子さんに合わせるよう努力を求めてよいと思いませんか。
実は、そのほうがお母さまも先生も肩の荷が下りるはず。
理に適うようになるのですから。

12歳の私を外国語に駆り立てたのは…(12月13日)

大変お久しぶりです。
秋以降、イギリスの語り・歌・ハープの名手である友人たちを招いての「イギリス・福島、ふるさとの歌とことばの響きあい」にかかりきりになっておりました。この秋のこころみは、これまでの取り組みとおのずと軸がとおり、遠からずひとつにまとまる直感があります。

 

その原点はやはり10代のころにあるのです。…12歳の時、心底驚いたことがありました。

 

横浜のある古い女学校の1年生になりたてのころでした。はじめての英会話の時間、パステルカラーのワンピースを着た50代半ばと思われる女性宣教師の先生が教室に入って来られると、もうドキドキ。先生は、これから英語を学ぼうとしている私たちににっこり微笑みかけました。私たちの耳は本場アメリカやらの英語を期待していたのですが…聞こえてきたのはそれはそれは美しい日本語でした。mrsnorden

「これから半年、みなさんの英語を担当する~~です。私はみなさんが生まれるずっとずっと前に氷川丸という船で日本に来たのですよ。日本語も一生懸命勉強しました。これからみなさんとは英語でお話ししますが、それはみなさんの英語のためを思ってのことです。日本語を話さなくてもよいなどと思っているわけではありません。日本語はとても美しいことばですね。So my name is…」

 

仰天しました。

 

こんなふうに外国語である日本語を美しく、丁寧に話せるひとがいるとは!!

先生の日本語はいわゆるネイティブ日本人のものではありませんでした。けれど、ネイティブ日本人だからこそありがちなぞんざいさはかけらもなく、大人になって自分で意識的に学んだからこその丁寧さがみちあふれていました。ひとことずつが大切にされていました。

私たちが毎日あたりまえのように使っている日本語を、こんなに大事に話してくださって、ありがとうございます…そんな気持ちになりました。

そして、私も先生のように、外国の言葉を話してみたい、私がこんなに嬉しいように、外国の人を喜びでびっくりさせてみたい、という憧れが生まれたのです。

 

去る4月、もう傘寿をすぎたとは思えない先生と日本で再びお目にかかる機会がありました。久しぶりに耳にするお声も日本語も美しいままでした。

 

「グローバル人材」育成の一環として中学の英語の授業は英語で、という試みを文科省が唱えているようで。

 

さて、どうでしょうね。

 

10代の魂たちが憧れをおのずと掻き立てられるような大人と出会えるよう願うばかりです。

子どもに見せたい、政治家のスピーチ!イギリス・キャメロン首相(8月30日)

とんでもない混迷を深めるシリア。米欧が爆撃を検討するなか、イギリスでは下院が議案を通しませんでした。

The TIMES紙などは与党が恥をかいたという見方ですが、こういうときこそ器が出るものです。

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負けを認めるキャメロン首相の張りのある声、堂々とした話しぶり、

ことばの簡潔さ、力強さは印象的です。(ちょっと悔しそうですけどね)

時折メモに目は落とすものの、話すときはしっかり顔を上げて、

声と視線がばらけることはありません。

議場の最後列にいる議員たちのところまで空間を感じているのでしょう。

 

 

 

 

“I strongly believe in the need for a tough response to the use of chemical weapons

but I also believe in respecting the will of this House of Commons.

It is clear to me that the British Parliament, reflecting the views of the British people,

does not want to see British military action.

I get that and the government will act accordingly.”

 

「私は強く信じています。化学兵器を使用する者には断固たる対応が必要だと。

しかし、下院の意志を尊ぶべしとも信じています。

もうこれで私にははっきりしました。

英国のひとびとの観方を反映する英国政府は、英国軍の軍事行動を望まないと。

承知しました。政府もそれにしたがって行動します。」

 

英国下院のようすを伝えるBBCのビデオはこちらをクリック。

 

おお、快哉、快哉。さっそくお手本とさせていただきます。ほら、このとおり。

 

I strongly believe in the need for a decisive action to

secure  energy to support our economy

but I also believe in respecting the will of this House of Commons.

It is clear to me that the Japanese Diet,

reflecting the views of the Japanese people,

does not want to see any more nuclear facilities restarted.

I get that and the government will act accordingly.”

 

どうです、いいでしょ?

 

さて、日本の政治家のみなさまにも気をつけていただきたいこと。

①メモに視線を下げたまましゃべり続けない。

(ほんとはメモなんかないほうがよい。)

 

②議場のすみずみに想像の耳を置いて、そこに座っているひとのつもりで聴く。

(物理的な耳の位置ままで聞くと、ただのひとりごと)

 

③自分の骨の響きを聴く。そのためにも、自分にとってtrueであることを語る。

(全身の骨をひびかせてウソをつくのは辛いものです)

 

おかげさまで好評の「耳は不思議、声は宝」セミナー、10月も行います。

 

 

 

私の趣味ではないアファメーション (8月11日)

「今日も一日、私はポジティブな気持ちで幸せに過ごします」
といわゆるアファメーションを唱えるようにすすめられた、と
友人が怪訝そうな顔で言いました。

それを聞いて、私はもっと怪訝そうな顔をしたことでしょう。
ポジティブって、どんな次元の、なんのことでしょう?
ネガティブってそんなにいけないことでしょうか?

人のからだが生きていることは
「リズムをもって動いていること」に見てとれます。

そのリズムがあからさまでなくても、内的、静的な動きであっても
生きているものにはリズムと動きが宿っています。

心も似ています。

さまざまな喜怒哀楽のあいだを、foucault_pendulum_630px
振り子のように行ったり来たりして
知らないうちに螺旋のような成長の道を
あゆんでいるのではないでしょうか。

だから、怒りも悲しみも、経験としては
喜びや楽しみと等しく尊いと思うのです。

問題は、一か所に滞る、スタックすること。
浅い、というか低い喜びにスタックしているのは
悲しみに沈み続けるのと同じくらい、心配な状況。

さまざまな感情を季節のように味わうことから
他者の気持ちに寄り添いたい、という想いも
生まれるように思うのです。

20090731_1046705   「あなた方を迫害する者のために祝福を祈りなさい。
祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」
—- ローマの信徒への手紙 12章14-15節—-

自分がポジティブかネガティブか、なんて
どうでもいいのです。

そんなこと気にしていること自体がすでに不自由。
自由に、他者と共にあるという至福を想います。

 

 

 

 

多様性だけでは意味がない (7月24日)

細野さんの立場、菅さん、鳩山さんの処遇をめぐって民主党ではいろいろな話し合いがあったようです。

民主党は多様な意見を持つ人々を集めているのに、これでは…と選挙前から気になっていたことがありました。。

 

それは個々の、「マイノリティの自覚」不足です。

 

それぞれが、「おいらが一番よくわかっている、いつかみんなに言うこと聞かせてやる」という幼稚でナイーブなマジョリティ感覚に酔いしれていた。

 

マイノリティの自覚という洗礼を通ってこそ、多様性のある場から想像力と学びが育つのだと思います。

 

ICUという大学はなかなか強烈な経験をさせてくれました。

ただ多様なだけでなく、個々にマイノリティ自覚の洗礼を通過させられていたのです。

そのことに気付いたのはしばらくたってのことですが。

 

日本育ちの学生は、日本の学校では英語がとてもよくできたのに、

英語をしゃべれない内気な子と思われてる…

一方、自分より英語はできなかった高校時代の同級生は日本の大学で楽しそうにやっている。

帰国子女の学生だって大変。

アメリカの学校ではトップだったのに、池袋ってどんなbag?

役人と官僚はどう違うの?ときいて笑われてしまう。

 

どちらも、人に相談したり、文句を言ったりしているだけではなんにもなりません。

今目の前にいる相手に通じることばを自分が獲得する以外、どうにもならないのです。

自分から、古い物差しを脇へ置いて、新しい物差しをあてて、

自分から変わらなくてはどうにもならないのです。

 

人間社会は多様性だけでは意味がない。

ただ、いろんなのがいるだけでバランスが取れる、新しいものが生まれるわけではない。

多様性、マイノリティ自覚、想像力 セットなのです。

 

 

 

カゼインが、グルテンが悪いのか、納豆ならなんでもよいのか

いわゆる発達障害が大人たちの不注意による中枢神経汚染であるケースが多いことがわかってきました。
ほんとうに、子どもたちは鏡です。

さて、私が気になるのは物質名でよい、わるい、を唱え、それになびく傾向です。数年前もテレビで納豆さわぎがあったではありませんか。

むしろ「いかに」を大事にしたいと思うのです。

たとえば乳製品の場合、日本では全頭除角といって、角を切り落とすことが奨励されます。しかし、牛の角はケラチンという絶縁体でできていて、牛の神経伝達を漏らさない、という働きがあるといいます。角のついている牝牛のミルクはタンパク質の分子の大きさが安定していて、牛乳アレルギーの方もおいしく飲める、という報告もあります。また、牛乳とチーズではまったく意味が違うのです。

グルテンについても、周辺をとりまく他のアミノ酸や精製方法によってクオリティは千差万別でしょう。

ヨーロッパでは東南アジアのアブラヤシを環境破壊として退ける運動が高まっています。
確かに現地では政府と大企業が結託して一時的な利潤を追求しています。
けれど、東南アジアに根差し、天地人の理に適った加工を目指す人もいるのです。
こういう志ある生産者を善意の消費者が幼い選択で圧迫することがないように、と望みます。

 

ボランティアは無賃奉仕ではない

ボランティアは無賃奉仕のような印象がありますが…違います。

volunt- は意志、つまりindex1自らの意志で行う、という意味です。

 

聖書にはこんなふうに。

”In terra pax hominibus bonae VOLUNTATIS”

地には平和、善き人にあれ

 

 

みずからの意志だからこそ、志願兵、という意味にもなるのです。

 

仕事としてお金を頂くほどでないのでボランティアで…というのは、言い間違い。

「アマチュアだから無料で」という意味は「ボランティア」にはかけらもありません。

 

自分の意志で行う、という意味ならば、お給料が出ている仕事こそボランティアでなくては。

意志などないのに、時間を切り売りしているとしたら、ボランティアでも仕事でもありません。

暇つぶしの時間泥棒です。職種の問題ではありません。取りくみ方の違いです。

 

「これは世のため人のためになるからやりたい」という自らの意志と「ぜひやってほしい」という世の意志が近づくと、

仕事としてやりやすいのでしょう。これは普通のお仕事、報酬アリのボランティアとでも呼びましょうか。

 

ときには、時期尚早を承知で呼びかけてみたい、などということもあります。

もちろん、相手がすでの応じる感性を持っていると直感し、信じてのことです。

そういうときは投資としての、自腹、手弁当ボランティアとなります。

でも、いつまでも手弁当なのは何か課題があるのです。

 

ときどき交通費さえ受け取るのを拒むボランティアさんを見かけます。

なにも生計に入れなくてもよいのです。次の取り組みに活かせばよいのでは、と思います。

あら、そんなに受け取るのが苦しいなら、えへへへへ、ぜひ、こちらの口座に…

掟は破れるけれど

北アイルランドでのG8。
安倍首相はアベノミクスについて各国に熱心に説明したそうで。

アベノミクス、と聞けば多くの日本人はアベ+エコノミクス、安倍さんの経済政策、と思うことでしょう。

新聞にも「安倍政権の経済政策、いわゆるアベノミクス」とありました。

私は、どういうわけか「コ」が抜けたのが気になるのです。
アベノミクスでは長すぎるのでしょうが、このごろの政権の様子を見ていると偶然とは思えず…

Abenomicsは、abe + nomicsのふたつの部分に分かれます。

abeは言わずもがな、安倍さん。 nomicsはギリシャ語でノモス、掟、法を指します。

あら、経済はどこへ行ったのでしょう?

そもそも経済、economyeco+nomy

ecoはギリシャ語のオイコス「家」、nomyはこれまたノモス「法」に由来します。
家計簿に向かってそろばんをはじいている昭和のお母さんみたいですが、家の意味にもいろいろあります。

人類という大きな家族のすみか、つまり世界、という大きな家を思い浮かべてもよいでしょう。

ところで、このecoはエコのエコです。「それってエコだね。」は「それって家だね。」という意味。ギリシャ人には「?」です。

このエコはecology=eco+logyの略。
オイコス「家」+ロゴス「理」から成り立っています。

さて、ノモスロゴスはどう違うのでしょう。

ノモスは人が定めた、人が変えられる統治の仕組み。
autonomy=自治にもノモスが入っています。

ロゴスは人と関係なく宇宙、天にそなわる、人には変えられない仕組み。
biology, geology, philologyなど天地の理を探求する学問名によく登場しますね。

hades

エコノミクスをノモスに敷衍し、ロゴスまで変えようとする。

そんなことはできない、してはならないと思い知ったばかりではありませんか。

そんな人間には冥界の門が大きく開くことでしょう。

そこで待っている冥府の長はその名をギリシャではハデース、

ローマではプルートーといいます。