【英詩講座レポート⑨】史上初の「いいね」 The Genesis (創世記)1:1-5

通訳藝術道場の冠木友紀子です。

シュタイナー学校の先生のための英詩講座も第9回となりました。たった9回ですが、なぜかもう100回くらいのような気がします。みずからの問いを手掛かりにたったひとつの詩に2時間向き合う時間はとても密度が濃いのです。

これまでの詩は、一見『めだかの学校』みたいにあどけないものばかりでした。ところが、子どもの心にすっと届くよう選び抜かれた言葉たちは、かえって奥深い綾を織りなしていたのですねえ。

それが今回は「一見『めだかの学校』」どころじゃございません。

「旧約聖書 創世記 1章1-5節」

うう…。

講座でも話題になりました。「なぜこれが英詩として小学4年生に?」

この問いをもとにかいつまんでご報告します。

この英語、いつごろのものと感じますか?

THE CREATION
GENESIS 1:1-5
In the beginning God created the heaven and earth.
And the earth was without form, and void;
and darkness was upon the face of the deep.
And the Spirit of God moved upon the face of the waters.
And God said, Let there be light: and there was light,
And God saw the light, that it was good:
and God divided the light from the darkness.
And God called the light Day,
and the darkness he called Night.
And the evening and the morning were the first day

1900年ごろ?1850年ごろ?それとも1800年?

実は、1611年に出版されたものです。江戸初期の日本語よりずっと現代に近く感じませんか?

これは欽定訳聖書。欽の字は金欠と書くのに王様のことなのが不思議ですが、ジェームズ1世(スコットランドではジェームズ6世)の命により進められ、初めて全巻翻訳が完成した英訳聖書です。

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いまでこそどこの本屋さんでも聖書を売っています。キリスト教主義学校では新入生に入学祝いとして聖書を贈り、毎朝の礼拝でほんの少しずつ精読、講話を聴きます。(このスタイルが私の詩の読みに大いに影響しています。)

でも、昔、カトリックの世界では聖書は専門職のものだったのです。一般ピーポーが読むと間違うから無理、ダメとされていたのです。

よく凝りに凝ったキンキラキンの写本が博物館に展示されているでしょう?あれが本屋さんに並んでいるわけがありません。修道院や教会の外に出ることのない1点ものです。

KellsFol032vChristEnthroned.jpg

なので、ルターが「聖書と信仰のみ」と言い出したのは大変なことでした。

イギリスでもウィクリフ(1320頃―1384)、ティンダル(1494(5)-1536)が、ギリシャ語、ヘブライ語の聖書原典を英訳しようとつとめました。(この前にもすごい人たちがいますが、長くなるので割愛します。)

ところが、ウィクリフはカトリックに死後異端と決めつけられ、遺体を掘り起こされ著書と共に火あぶりにされるという何とも恐ろしいことに。

ティンダルは離婚再婚しまくりのヘンリー8世と対立し、国外逃避行の最中ベルギーでこれまた火あぶりにされます。

気の毒な最期を迎えたティンダルですが、子どもにもすっと伝わるような翻訳を心がけたとされ、のちの欽定訳の土台になりました。

ウィクリフやティンダルにしてみれば、王様が「俺が責任取るからとにかくやれ」と命じ、一般ピーポーも読める英語聖書が生まれるなんて、夢のような話でしょう。

さて、聖書は何のためにあるのでしょう?

民族の歴史を記し…預言者の声を残し…とさまざまですが、なによりひとの心を動かし、信仰を抱かせることでしょう。

ならば、心に響くような工夫を凝らさないはずがありません。

おのずと、始めから終わりまで工夫を凝らした一大文学作品となったのです。散文の部分まで、ありきたりの論文やジャーナリズムのような散文とは次元が違います。

だから、英詩としてWaldorf Book of Poetryに収録されているのでしょう。

英語と縁のある日本の皆さんも、信仰は別として、英語聖書をひもとくことを強くおすすめします。

それに、ちょっと面白いこともあります。

今回の部分には「神の霊が水のおもてを被って」とあります。でも、ちょっと先まで読んでみると「大地は乾いていた。でも地下から水が湧いた」のようなことが書いてあります。

さらに、「神は人を男と女に創造された」と書いてあるのに、その後でアダムのあばらからエバが造られる話が出てきます。

ん?おーい、編集者!

これ、別々の資料のつなぎ合わせという説が有力です。前者はP(Priest祭司)資料と呼ばれ、神こそ創り主、と念押しします。後者はJ(ヤハウィスト)資料と呼ばれ、あまり神話的ではなく、社会的、歴史的な記述が目につきます。

昔はモーセが旧約聖書最初の5巻、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記はひとりで書いたということになっていましたが、本当ならちょっとアウトプット過剰では?

さて、今回の部分に戻りますと…

①プレグナントな瞬間

さて、P資料部分の欽定訳、音読してみると、心拍のように心地よいリズムが感じられます。まるで胎児の身体に血が巡り、心臓が脈を打ち始めるときのようです。

赤ちゃんつながりで思い出されるのは高橋巌先生著の「デュオニソスの美学」です。この本のなかで高橋先生は繰り返し「プレグナントな瞬間」と書かれます。プレグナントは語源的には「誕生gnantに先立つpre」という意味です。誕生の一瞬前に生まれ来るものを想い、胸高鳴るときです。

4.5年生ともなれば、絵を描くにも、文章を書くにも、この胸の高鳴りを知るのではないでしょうか。まだ世と一体の幼子は知らない緊張と興奮を。

In the beginning…と声に出す前に、このプレグナントな一瞬を想いたいものです。

②光にまかせ?

日本語では「光あれ」の部分、なんだか光が「親分、お呼びですかい」と飛んでくるよう…と妄想するのは私だけでしょうか。

ここ、英語ではLet there be light.です。Let S VはSがそうしたいと願うままにさせる、というニュアンスです。光自身が「世に在りたい」と願い、神様は「いいよ」と認めたということでしょうか。And God sawa the light, that it was good.そして神は「いいね」した。史上初の「いいね」です。このあとずっと「いいよ」「いいね」が続きます。

今日の世界を神様が眺めたら「いいね」できる?なんてことを問う子どももいるかもしれません。

③エロヒム?

しばしば日本のひとたちが一神教のことを単純化し過ぎているのが気になります。これについては別稿にて。

「私以外を神としてはならない」なんて、「私」以外に誰もいなかったら言うもんですか。

さて、Waldorf Book of Poetryでは欽定訳の左隣にヘブライ語のアルファベット音写があります。フリガナ(?)どおり音読すると、真言のような迫力がありますがさっぱり分かりません。一言を除いては。エロヒムです。

(シュタイナーによるエロヒム説も講座では触れましたが、ここでは「語」に注目します。)

英語では神はずっとGodですが、ヘブライ語ではElohimと書かれています。
この語はアッラーをはじめ、中近東のさまざまな神の名と語源を共有しています。ときに単数扱いされたり、複数扱いされたり、はたまた動詞の形も単複揺れがあったり…ととても複雑です。

とかく私たちは海外というと欧米ばかり想像したり、その源をギリシャ・ローマまでしか認識しなかったりします。

まだその奥があるのです。

そして今週土曜、7月17日はなんと詩篇23篇「主はわが羊飼い」です。
お申し込みはこちらからどうぞ。

シュタイナー学校の先生のための英詩講座 第10回 The 23rd Psalm

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【英詩講座レポート⑧】人間はそんなに偉いか?-“Unstooping” by Walter De La Mare

第1回でとりあげたウォルター・デ・ラ・メア(1873-1956)。
Some Oneでは人間の世界の向こうに広がる、自然の世界の不思議を感じさせてくれましたー夜明け前の森の小屋の扉を叩くノックの音…扉を開けると誰もいなくて、向こうの森からはフクロウの声…

さて、今回は…?

え?なんだか人間中心、動物に優位?

え、まさかデ・ラ・メアが、そんな…

Unstooping 
                       Walter De La Mare 
 
Low on his fours the Lion 
Treads with the surly Bear;
But Men straight upward from the dust
Walk with their heads in air;
The free sweet winds of heaven,
The sunlight from on high
Beat on their clear bright cheeks and brows
As they go striding by;
The doors of all their houses
They arch so they may go,
Uplifted o’er the four-foot beasts,
Unstooping, to and fro.

1,2行目のLion, Bearは大文字でしかもtheがついています。
初登場でtheがついていると、ライオンのなかのライオン、ライオンたるもの、というふうに本質を体現する代表を示します。「ライオンは百獣の王である」のライオンはthe Lion ですが、「オスのライオンは子育ても狩りもせず昼寝ばかりしている」はthe ではなく、そんじょそこらのa lionです。

さて、のしのしと大地をふみしめる立派なザ・ライオン(ビール?)とザ・熊と対比される人間は…ただのMen。ザ・人間ではなくただの複数形の「人々」。3行目のdust (塵)からまっすぐ立ち上がる、のくだりは、土くれから作られたアダムが神様の息吹に魂をもって人として生き始めた、アダムの創造を想い起こします。

アダムの創造は1回きりではないのでしょう。
ひとりひとりがアダムであり、「人々」はそれぞれ日々創造され続けているのです。

そのことが、第2連の天の風と光という精神の糧を頬に受け続け、晴れやかな面差しでいる、あたりに現れているのではないでしょうか。

strideも大股でさっそうと歩いていて爽快です。

第3連、玄関扉がアーチしているのは直立姿勢を保つため、と聞いた子どもは、アーチ扉を見るたびに思わず姿勢を整えるでしょうね。

close up photography of brown lion
Photo by Pixabay on Pexels.com

直立、とは書きましたが、デ・ら・メアはuprightという言葉は使っていません。upliftedと過去分詞です、受け身です。人がまっすぐ立つのは自分の気合頼みではなく、天から引き上げられてのことなのだ、と思えます。

そして最終行はunstoopingとタイトルにもなっている語で始まります。

unstoopで辞書を引いてみてください。たいていの辞書にはないでしょう?。OEDでも用例は4,5文しか載っていません。そんな言葉、第一印象はきっと「造語」です。しかも否定の接頭辞unがついています。

人間は肯定文を想像し、それをもとに否定文を作ります。いきなり否定文は作れません。

Unstoopingの場合、まずstoop(身をかがめる)が目に浮かびます。これは受け身ではなく、自動詞の現在分詞です。自分でしちゃうんですね。

となると…どうも「人間よ、お前は動物より優位だ。世に君臨せよ」とはだいぶニュアンスが違います。そもそも「人間の皆さん」がそんなつもりになったらSDGsどころではありません。

実は、この詩に描かれている人間はそんな強者ではないように思うのです。

弱い人間が絶望にうなだれ、孤立するのは簡単。

だからこそ、他者と共に、自らのみをより頼むのではなく、天に任せ、望みをもって思うように歩み続けよ、と励ましているのではないでしょうか。

この詩が何年に書かれたのかは不明です。

ただ、1910年ごろから英仏露と独・オスマン・ハンガリーの関係が悪化し、戦争の暗雲が近づきます。

人間がみずからの内なる獣性に屈服し、互いに戦い続ける時代の到来です。
立派なライオン、立派な熊が呆れるようなことを人間が性懲りもなく続けた時代です。

そんな時代に飲み込まれた普通の人々を、この詩は激励しているように思います。

新コロ騒動をデ・ラ・メアだったらどう描くことでしょう。

シュタイナー学校の先生のための英詩講座、明後日は何と旧約聖書、創世記の出だしです。
英語表現を深く理解するには、キリスト教の知識が不可欠です。一方通行講義はしません(できません)。ご参加の皆さんの疑問、発想を中心に一緒に旅をします。ぜひご参加ください。

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【英詩講座レポート⑦】「見る」は「見られる」-“Fishes” by Roy Wilkinson

こんにちは。通訳藝術道場の冠木友紀子です。

シュタイナー学校の先生たちのための英詩講座、英語圏の4年生向けの詩シリーズも前半が終わりました。まだたった7篇ですが、もっともっと長い旅をしてさまざまな景色を見てきたような気がしてなりません。

今回はシュタイナー教員養成に尽力したRoy WilkinsonによるFishesでした。2時間の講座の一部をダイジェストでお目にかけます。

シュタイナー関係ではよく「すべてを知れ」と促されます。医師は医学のハウツーだけではなく、教師も専門科目のハウツーだけではなく、音楽家も演奏スキルだけではなく…皆、音楽、哲学、歴史…すべてに心開くことが求められます。大変?そんなことはありません。「専門外だから関係ありません」という姿勢では到底想像できない、世界への畏敬と喜びに満たされる道です。その道を生涯かけて歩んだのがRoy Wilkinson (1917-2007) と言えそうです。

おお、また「めだかの学校」みたいな詩?と思いきや、とんでもない。人間とは何者か、お前はどう生きているのか、と問われるようです。

FISHES

In the ever flowing water
Up and down I love to roam,
Whether it be lake or river
Water, water is my home.

Perhaps a glimpse of me you saw,
In the water something shone.
You looked again, what did you see?
Nothing, I had gone.
魚たち

たえず流れる水のなか
ここかしこへとさすらいたい
みずうみであれ、川であれ
水、水こそは私の住みか

もしかして、ちらりと私が見えたでしょう。
水のなかに何かがきらり
あなたもいちど見入って、何が見えた?
なあんにも。もう私はいなかった。
謎めいた複数形のFishes。スイミーを思い出します。みんなでひとつの「私」だったり、それぞれに「私」があったり…「私」の感覚が人間とは違うのでしょうね。(講座で話題になりましたが、書くとややこしくなりそうです。ぜひ講座へどうぞ。)

一行ごとに揃った行末の音(脚韻)と、強弱のリズムが淡水のさざ波のようです。

さて、第1連、水が魚の住まいだというのは、当たり前と言えば当たり前。「水魚の交わり」(劉備と諸葛孔明のこと)など日本語でもなじみのある表現です。

さらっと読み流してもいいのですが…、水と魚を鏡に自分たち人間を振り返ってみると…

35年ローンを組んで手に入れた家(ハウス)も、コロナ以前は寝に帰るばかり。リモートワーク用の部屋はないし、1日中在宅する家族の食事作りにうんざり…。おやおや。

魚は水を専有しません。食べ物も、排せつも水中に。汚い?そんなことはありません。不垢不浄の循環です。

いきなり魚をお手本にするわけにはいきませんが、人間のhomeも見直す機会ではないでしょうか。

ひとりごとのような第1連から打って変わって、第2連はyouが登場します。

youは詩の読者、人間と考えるのが自然でしょう。(まあ、猫でもいいんですけど…)

水中で魚が体をくねらせでもしたのか、一瞬光った。それを人がちらりと見て、何だろうともう一度のぞき込むと、魚はもういなかった、というだけの出来事です。

さて、その出来事はどう語られているでしょう?

panoramic photo of bushes near pond
Photo by Pixabay on Pexels.com

再掲しますと…

Perhaps a glimpse of me you saw,
In the water something shone.

どうもこの魚、自分のことをsomethingなんて言って、見ていた人間の側から語っているようではありませんか。

You looked again, what did you see?
Nothing, I had gone.

人は魚を見ようとするけれど見失っている。一方、魚のほうがよほど人を見通している。自分が去った後、人が「あれれ?」と覗き込んでいるところまで見届けている。そして、人には何も見えなかったのを承知で「何が見えたの?」なんて訊ねるのだから、一枚上手。

私たちは魚を釣りの獲物として、食物として、ペットとして…「対象」として「見て」いるつもりでいます。

こんなふうに、魚に見られているとしたら…

見るは、見られる。

見られることを想わない「見る」はそろそろ終わりにしませんか。

6月19日 シュタイナー学校の先生のための英詩講座 第8回はWalter De La Mare のUnstoopingを読みます。単発参加OKです。

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【英詩講座レポート⑥】目をとめる、ひとつになる、望みを託すー”Duck’s Ditty” by Kenneth Grahame

この詩もまたのどかな景色です。あひるたちが頭を水に突っ込み、しっぽを立て、足をびくつかせて餌をとっている…

なんだか、またまた童謡みたいな…と思いがちですが、これまたなかなか味わい深いんです。

Duck’s Ditty
Kenneth Grahame

All along the backwater,
Through the rushes tall,
 Ducks are a-dabbling,
  Up tails all!
 
 Duck’s tails, drake’s tails,
Yellow feet a quiver,
Yellow bills all out of sight,
Busy in the river!
 
Slushy green undergrowth
Where the roach swim
 Here we keep our larder,
Cool and full and dim!
 
Everyone for what he likes!
WE like to be
 Heads down, tails up,
  Dabbling free!
 
High in the blue above
Swifts whirl and call-
WE are down a-dabbling
Up tails all!
あひるのうた
ケネス・グレイアム (冠木友紀子訳)

よどみのほとり
   いぐさをすりぬけ
あひるたちは水底つつく
   全員しっぽ上!

めすのしっぽ、おすのしっぽ
   黄色い足がぴくぴくり
黄色いくちばし見えません
   おとりこみ中、川のなか

ぬかるむ緑の草むらかすめ
   ローチ鯉が泳ぐあたり
ここに私ら糧たくわえる
   ひんやり満タン、薄暗い!

めいめい自分の好物を!
   「私ら」好むは
頭は下に、しっぽは上に
   水底つつく、思うまま

はるか見上げる青空を
   めぐって鳴くはあまつばめ
「私ら」下で水底つつく
   全員、しっぽ上!
それにしても、weをどう訳すか、悩ましい!我ら、わたしら、僕ら、おらだち…
英国、エマソン・カレッジ近くのbackwater. さて、どちらに流れているのやら。

さて、シュタイナー学校の先生のための英詩講座は、お互いの近況を聞きあうことから始めます。

次に英詩を朗読し、詩について気づいたこと、気になることを分かち合います。まあ、いろいろ出てくること。

皆さんからの「気づいたこと、気になること」を元手に私が問いかけ、皆さんが思いめぐらし、扉を開けて進みゆきます。

決して、私がはじめから作者の人物伝紹介や1行目からの解説をしたりはしません。

そういえば30年前、私もそのように導かれ、ことばと想像の旅に心躍らせていたのでした。

今回はR先生の問いが口火となりました。

「Swiftsってなんでしょう。」

さて、何者でしょう?可能性としては…?

「動詞で最後のsが三単現のsである場合と、複数形の名詞の場合ですね。」

動詞とすると…?

「主語がないです!」

ということは…?

「複数形の名詞ですね。swiftが名詞って何でしょう…アマツバメ!」

アマツバメが上空を旋回して、大声出してるんですね。

「callのあと、ピリオドじゃない…?ん…ピリオドみたいにぴしゃりとここで切れる!という感じがしませんね。次の下の方であひるが水に頭突っ込んでいるのとコントラストがはっきりする感じがします。」

「ん?なんで突然第3連でWEなんでしょう。誰のコト?」

…こんな感じです。どこから旅が始まってもいいのです。必ずぐるりと一周できるのが詩の楽しいところ。アカデミック・ライティングやスキミング・スキャニング飛ばし読みではこうはいきません。

また、ひとりよがりのなんとなく、な読み方はしません。小さな気づきも理詰めに根拠を確かめたほうが確かな発見があり、心躍ります。

少々端折ります…

はじめに出てくるbackwaterはいかにも英国の小川。もう、どちらに流れているのかわからないような、ゆったりとした流れです。微生物で濃い緑色になり、水中はよく見えません。標高差が大きな日本の澄んだ急流を想像すると頓珍漢なことになります。同様に、英国に生息するあひるの種類も確かめます。

この5連からなる詩、第2連まで、詩人はあひるたちとその環境にひとつひとつによく目を止めています。けれど、Up tails all!なんていう掛け声もあり、どうも自然科学者が対象物を突き放して観察している空気ではありません。

(そういえば、見る、同時に見られている、という説もありますねえ。)

ついに第3連、weが登場します。もう、詩人はあひるたちとひとつになっています。

このあひるの群れ、めいめいが好きなものを食べています。食べものの幅が広いのもあひるの特徴だとか。

そして、アマツバメとのハイフンを挟んだ対比は「ひとはひと、自分は自分」の境地です。

鳥たちの姿を借りて、人の望みを語っているようですね。

この詩の作者、ケネス・グレイアム(1859-1932)は”The Wind in the Willows”「たのしい川べ」で知られています。

スコットランドに生まれ、幼いうちに母を亡くし、アル中の父の意向で兄弟とともにイングランド、バークシャーの祖母に預けられました。そこはテムズ川上流の自然豊かな田園地帯だったそうで、「たのしい川べ」もこの詩も当時の思い出の景色のようです。

オクスフォード大への進学で知られる学校では成績優秀、当然オクスフォードに…と本人は望んだものの、経済的理由で叶いませんでした。その代わり、なんとイングランド銀行に就職することに…

銀行では重役まで勤め上げますが、勢力争いや銃撃未遂事件もあり、49歳で退職、幼少期を過ごしたバークシャーに戻ります。

この間、文筆活動を続けます。40歳で結婚して間もなく生まれた息子に読ませたいとも願っていたようです。ただ、この息子は病弱で悩み多く、グレイアムが61歳の時に自ら命を絶ちました。

英語圏のシュタイナー学校の4年生にちょうど良いとされている詩の多くが、この詩のように100年ほど前に書かれたものです。

急速に工業化、近代化が進み、戦争に突進した時代、青年となった詩人たちは幼年時代とはずいぶん違う世界に飲み込まれていったことでしょう。その様変わりした世界から幼年時代を振り返り、我が子にも読ませたいと願う詩は、天衣無縫な童謡にはない影を帯びているように思えます。

シュタイナー学校の先生のための英詩講座 
第7回は6月5日 Fishes by Roy Wilkinson

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【英詩講座レポート⑤】一見ちゃらい詩こそ侮れない!”Grasshopper Green” by George Cooper

こんにちは!通訳藝術道場主宰の冠木友紀子です。

GWの最中、しかも週末だというのに、無粋にも「シュタイナー学校の先生のための英詩講座、第5回」を開きました。それくらい、英詩を皆さんと読むひとときは、深い喜びに満たされるんです。「楽しい」「わくわく」なんて言葉では表せないほどです。この喜びが「いまを生きる」のキーティング先生を支えてもいたのでしょう。

それにしても、おおつきあいくださった先生方、ありがとうございます。ご家族のみなさま、すみません。

さて、この講座の準備のごく一部をお裾分けいたします。

今回の詩は「Grasshopper Green」。

Waldorf Book of Poetryには作者名が書かれていませんが、アメリカのGeorge Cooper(1840ー1927)であることがわかっています。

(スマホの縦画面では改行が見にくいかもしれません。)

Grasshopper Green by George Cooper

Grasshopper Green is a comical chap; 
He lives on the best of fare. 
Bright little trousers, jacket and cap, 
These are his summer wear. 
Out in the meadow he loves to go, 
Playing away in the sun; 
It’s hopperty, skipperty, high and low--- 
Summer’s the time for fun.

Grasshopper Green has a quaint little house:
It’s under the hedgerow gay.
Grandmother Spider, as still as a mouse,
Watches him over the way.
Gladly he’s calling the children, I know,
Out in the beautiful sun;
It’s hopperty, skipperty, high and low---
Summer’s the time for fun

青々バッタはおかしな輩、
もっぱら食べるは大御馳走。
派手な短パン、上着に帽子
これが夏のお召し物。
おもての茂みがお気に入り
遊びまくって日向ぼこ。
ぴょんぴょんはねてあちこちへ
夏はゆかいな季節だな。

青々バッタのイカした庵は
楽しい生垣、その下に。
蜘蛛の婆さん、鼠のようにじっとして
ずっと見守る、やっこさんを。
ご機嫌上々やっこさん、子どもら呼び出す
まことにみごとな日向へと。
ぴょんぴょんはねてあちこちへ
夏はゆかいな季節だな。
(訳 冠木友紀子 )

ふむ。

まあ、韻はふんでますね。

Hopperty, Skippertyの強弱弱のパターンが詩全体に通っていて、バッタの動きそのものを反映しているのね…

でも、別に深遠な謎は感じない…

AllinghamGravesの詩はよかった…妖精のことを描いているのに、詩人は妖精と目を合わせないし、言葉も交わさない。それが人間と妖精の距離。すぐ近くにいるのに、別の世界を作っている。人間の常識を超えた異界だから。

なのに!これじゃまるでディズニー。擬人化し放題。まあ、アメリカの方がこの詩をもとに作ったアニメもYouTubeにごっそりあるし。アメリカってそんなもんかしら…

第2連は…あら?突然the childrenって誰?

蜘蛛の婆さんが見守るというのものんきな情景。蜘蛛さん、もうおばあちゃんだから、動けないのかしら。

と思ったところで、Waldorf Book of Poetryでとりあげられているこの詩は、全3連中、元の第2連が抜けた版であることを発見。第1連と第3連だけでもバッタの幸せな「衣食住」というピースは揃うのですが、もとの第2連が気になります。

Grasshopper Green has a dozen wee boys,
And, soon as their legs grow strong,
All of them join in his frolicsome joys,
Humming his merry song.
Under the leaves in a happy row,
Soon as the day has begun,
It's hopperty, skipperty, high and low:
Summer's the time for fun!

青々バッタは十二の子福、
脚が丈夫に育つやいなや
倅揃って親父と遊ぶ、
親父の歌に鼻歌合わせ。
草葉の下に楽しく並び
朝まだきから
ぴょんぴょんはねてあちこちへ
夏はゆかいな季節だな。

ほほう、the childrenはここにでてきたa wee dozen boysのことのようです。いきなりtheはぎょっとしました。途中を端折るとこういうところが辻褄合わなくなるのです。

もとの第2連、バッタの息子たちは父から学び、父と共に歌い、育っていきます。なんとものどかな風景です。

ふと、ここで正反対の風景が頭をよぎりました。父は仕事、息子たちは学校。父から息子たちが学ぶことはなく、共に楽しむこともない。戦争になれば皆兵隊にとられていく。

それに比べたら、もとの第2連は平和そのものです。

第3連の蜘蛛の婆さんとも、食うもの、食われるもの、という関係ではありません。そういえば、似たような風景が…

そう、イザヤ書11章「エッサイの根より…」で始まる究極の平和の風景です。

狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
(イザヤ書 11章)

この詩はバッタのおおいに結構な日常を描きつつ、じわじわと平和への願いをこめていると言えそうです。

ここからは野暮な調べものです。詩を一言一言じっくり読むことと、調べもののバランスが崩れるほど、野暮なことはありません。そのことを肝に銘じた上で…

クーパーはNY下町のthe Boweryザ・バウワリに生まれます。今は安宿、安居酒屋街のようですが、1840年の頃は緑豊かな遊び場に恵まれていたようです。

13歳のころに実学志向な親の意向で大規模な学校に転校させられます。この学校がどうも合わなかったようで、当時から休み時間に忍び出た校庭で出会った生き物を主題に詩を作り、心なぐさめて過ごしました。(バッタの父子とはだいぶ違います!)

その後も法律を学ぶべし、という親の方針に従い、弁護士事務所に弟子入り、みずからも資格を得ますが、出世欲とは無縁だったようです。この間もあちこちの文芸雑誌に投稿、掲載されます。

そして南北戦争(1861-65)中、クーパーが作詩、14歳年上のスティーブン・C.・ フォスターが作曲し「戦時歌謡」を量産、ヒットを飛ばします。

もう、ゲティスバーグの戦いで撃たれた太鼓兵の少年が、かけつけた母の胸で息絶える歌などは劇的で、日本の「暁に祈る」「露営の歌」「若鷲の歌」を思わせます。

ところが、1863年1月、ザ・バウワリの安宿を転々としていたフォスターは熱を出してホテルで寝込みます。その数日後、メイドから連絡を受けたクーパーが駆けつけると、フォスターは床に広がる血の海に横たわっていました。

その時のことをクーパーはこう書いています。
“He lay there on the floor, naked, suffering horribly. He had wonderful big brown eyes, and they looked up at me with an appeal I can never forget. He whispered, ‘I’m done for.'”
「フォスターは床に横たわっていた。裸のままでひどく苦しんでいた。その見事な茶色の大きな瞳で私を見上げた。あの訴えるような眼差しを忘れられようか。そして彼はささやいた。『もうだめだ。』」

3日間の加療も空しく、フォスターは37歳で世を去りました。クーパーがフォスターの親族にその死を伝えた電報がこちらです。

(Western Union社サイトより)

フォスターの死が、親族が公表した通り、高熱で倒れた拍子に陶器の洗面台に頭と首をぶつけ切り傷を負ったためなのか、そうでないのかは諸説あり謎のままです。

フォスターとクーパーの関係についても芸能レポートなみに諸説あります。

左がフォスター、右がクーパー

ただ、私は南北戦争を背景に一世を風靡したフォスターとクーパー、そして彼らの蜜月時代の突然の衝撃的な終わりが、この詩の第2連と対照をなしているように感じられるのです。

フォスターは職業作曲家として音楽で身を立て、彗星のごとく現れ、消えてゆきました。

一方、クーパーは作詩を稼業とはしませんでした。「『イーリアス』のような立派な詩よりも、子どもがひとりでも喜ぶような詩を書きたい」と周囲に語り、書き続け、87歳で天寿をまっとうしたそうです。

野暮な調べものでございました。詩を読む前に作者のことをいろいろ調べるのはかえって楽しみを台無しにするように思われます。あくまでも詩を何度も読み、唱え、覚え、口をついて出てくるようになじむ。そして、ふと、何かが気にかかる。調べものはそれからです。そうして、自分の小さな好き嫌いの枠が壊れてゆくように思います。

第6回 シュタイナー学校の先生のための英詩講座 単発参加もOKです。
次回は“Duck’s Ditty” by Kenneth Grahame を読みましょう。

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【英詩講座レポート④】抵抗勢力を理解するためにこそ悪戦苦闘する

通訳藝術道場主宰の冠木友紀子です。

すっかり報告が遅れましたが、シュタイナー学校の先生のための英詩講座も第4回を終えました。

とりあげる詩は、参加者や私の好みは脇におき、ひとまず英語圏の小学4年におすすめとされる詩を読んでいます。

第3回までは感動の深読み、細やかな気づきでパーンと開ける扉がいくつもあったのですが…第4回はこちら。Molly de HavasのSeeds…これが実はなんとも…

アメリカのシュタイナー教育関係のサイトには大人の喜びの声があふれています。
「何度も繰り返し、暗誦できるようになったらリズムがほんとに生き生きしてきて…」
「サステイナブルな家庭菜園での子育てにぴったり…

春待つ心が弾むようではあります、が…

SEEDS
Molly De Havas

After Christmas it’s time to be thinking of Spring,
And the flowers and vegetables springtime will bring.
We must go to a shop and choose packets of seeds
To be sown in the garden to fill all our needs.

First the weeds must be pulled and the clean earth laid bare.
Then dug over, and broken, and levelled with care;
Next in furrows and holes that we’ve made in the earth
We will plant the brown seeds, and with joy wait their birth.

(The Waldorf Book of Poetry, ed. by David Kennedy, 
Living Arts Books, Wisconsin, 2012, p.100)

うーむ。私たちの頭の上に「?」が立っているのが見えるようでした。

毎年、「お店」に行って「袋に入った種」を「選んで買う」?!
そして自分たちの「ニーズ」を満たさせる?
土を掘っくり返して耕す?
種からの「誕生」を待つ?

私たち、といえばバイオダイナミック農法に詳しく、日本の不耕起栽培、自家採種にも興味津々。

種はその土地に合ったものがその土地で採れるでしょう?
植物の一生から、私たちはお裾分けをいただくのでしょう?
むやみに耕すと表土の微生物が迷惑するでしょう?
植物は死なないでしょう?種は種として生きているでしょう?

もう、詩どころではありません。

ここらで深呼吸。

詩の内容に議論ふっかけるなんて野暮。それでは詩を読んだことにはならないのでは。

ここで思い出されたのが高橋巌さんのお話(2021年3月20日、於:横浜の朝カル)です。表現は正確ではないかもしれませんが…優しいお声にはっとしました。

「シュタイナーは時代とともにあろうと悪戦苦闘しました。ナチスをやっつけようと悪戦苦闘したのではありません。どうして時代がナチスの存在を許しているのか、どうしてナチスはそう考えるのか理解しようと悪戦苦闘したんです。」

そう、仲間内の「わたしたち」を理解するのは心地よいもの。でも、「あのひとたち」を理解するのは楽でない。だからこそ悪戦苦闘して理解しようと願う。

私たちもそれに倣おう、ということになりました。シュタイナーとナチスに比べたら(?)もうほとんど仲間内のような詩です。自分たちの物差しをあてて見下すなんて小さい、小さい。

なにごとにも段階がある。神社だって奥の院だけでは誰も来ません。参道には縁日があり、鳥居をいくつもくぐって本殿、そして奥の院へ。ものごとにはふさわしい居場所がある。

小さい自分は脇に置き、何度も声に出して読み、風景を細やかに思い描きます。

文字で伝えるのはなかなか大変ですが…タンタタ、タンタタ♩♫♩♫♩♫のような
リズムのパターンが心地よく続きます。

2行ずつの脚韻もわかりやすい。

おや、1行が長く、1文も長い。

thinking of A, B and Cやmust be A, B and Cのように畳みかけるよう。

そういえば、must, willが多い!

これはクリスマス節を過ぎて、もう待ちきれない心のなかの予定を描いているのですね。まだ実行していないんです。だからばかに順調に聞こえるんでしょう。

筆者、Molly de Havasは生没年、1904-1952年のほかはわかりません。他にThe Knightが知られていますが、これもちょっとナイーブ…

それが、20世紀前半のアメリカの市民生活ののどかさなのかもしれません。

今日、彼女の詩に出会う子どもたちはどう感じるか興味深いところです。

シュタイナー学校の先生のための英詩講座 単発参加 OKです。

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今は亡き人を想い続ける―ワーズワスの「みんなで7人」”We are Seven” by William Wordsworth

あの日から、1日、1日と積み重ね、今日で10年となりました。
もう10年、まだ10年。

ずっと気になっていた詩があります。
いつか震災で大切な人を失くした方たちに紹介したいと思っていました。ある人には遅すぎるかもしれませんし、ある方にはまだ早すぎるかもしれません。でも、今日、ひとつのこころみとして。

イギリスのロマン派を代表する詩人、ウィリアム・ワーズワスの「We are Seven みんなで7人」です。

この詩では、大人である詩人(語り手)が田舎で思いがけず出会った少女の素朴な美しさを好ましく思い、お嬢ちゃん、兄妹はなんにん?と尋ねるのですが、少女の答えは…

お粗末ながら、朗読はこちら。

We are Seven

---------A simple child,
That lightly draws its breath,
And feels its life in every limb,
What should it know of death?

I met a little cottage Girl:
She was eight years old, she said;
Her hair was thick with many a curl
That clustered round her head.

She had a rustic, woodland air,
And she was wildly clad:
Her eyes were fair and very fair;
―Her beauty made me glad.

"Sisters and brothers, little Maid,
How many may you be?"
"How many? Seven in all," she said,
And wondering looked at me.

"And where are they? I pray you tell."
She answered, "Seven are we;
And two of us at Conway dwell,
And two are gone to sea.

"Two of us in the church-yard lie,
My sister and my brother;
And, in the church-yard cottage, I
Dwell near them with my mother."

"You say that two at Conway dwell,
And two are gone to sea,
Yet ye are seven! I pray you tell,
Sweet Maid, how this may be."

Then did the little Maid reply,
"Seven boys and girls are we;
Two of us in the church-yard lie,
Beneath the church-yard tree."

"You run about, my little Maid,
Your limbs they are alive;
If two are in the church-yard laid,
Then ye are only five."

"Their graves are green, they may be seen,"
The little Maid replied,
"Twelve steps or more from my mother's door,
And they are side by side.

"My stockings there I often knit,
My kerchief there I hem;
And there upon the ground I sit,
And sing a song to them.

"And often after sun-set, Sir,
When it is light and fair,
I take my little porringer,
And eat my supper there.

"The first that died was siter Jane;
In bed she moaning lay,
Till God released her of her pain;
And then she went away.

"So in the church-yard she was laid;
And, when the grass was dry,
Together round her grave we played,
My brother John and I.

"And when the ground was white with snow,
And I could run and slide,
My brother John was forced to go,
And he lies by her side."

"How many are you, then," said I,
"If they two are in heaven?"
Quick was the little Maid's reply,
"O Master! we are seven."

"But they are dead; those two are dead!
Their spirits are in heaven!"
'Twas throwing words away; for still
The little Maid would have her will,
And said, "Nay, we are seven!"

姿は目に見えなくなっても、この少女にとって2人の姉兄はいるのです。そばで繕いものをしたり、ご飯を食べたりして、かまいつづけるのです。

この詩については「死を理解しない子どもの無垢さを描いている。」「語り手の態度は当時の人口調査を象徴している」という見方もあります。ほかにも諸説いろいろ。

ワーズワースたちはひとつ前の時代の文学スタイルに腹を立てていました。貴族的な人間の都合ばかりの文明の内にとどまり、「バラ色のほほ」のような紋切り型、形式的な表現で想定内のセレブごっこをしているとしか見えなかったのです。

彼らはもっと自然なもの、理性では割り切れないもの、闇に属するもの、日常、田舎、小さき者をとりあげ、活きた言葉で語ろうとしました。はるか昔、はるか遠くにも憧れ、ロマン派と呼ばれました。

そんな、ワーズワースたちの志を想い、この詩を何度も読むと、「子どもの無垢さ」を「死を理解しない」と結び付けるのはしっくりこないのです。

死は対象として理解するなどそもそも無理。でも、人は死んでも存在感は残るし、命ある人が死せる人々と共にいる感覚を抱くこともある。それは心の中にこの少女のような幼な子がいるからではないでしょうか

5人だ!と子ども相手に本気になっている語り手も滑稽です。正しく計算しようと執拗です。人には、被災者数とか、感染者数などの数では捉えきれない、ひとりひとりかけがえのない存在です。

さて、この詩を日本語にするならどうしましょう?(これまでにも日本語訳はいくつもなされていますが、標準語です。)

この詩は、バラッドという、民話や古謡を歌うのによく合うスタイルで書かれています。単刀直入な言葉選びと繰り返しの多さ、はっきりしたリズムが特徴です。

それぞれのふるさとの言葉にしてもよさそうです。

「おらだぢ七人だ。
2人はコンウィさ暮らしてる。
もう2人は水夫になった。
もう2人は教会の墓地で横さなってる。」

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